「孤独」と「悲しみ」は同義ではない

2011年08月31日

重松清「小さき者へ」

※「フライ・ダディ・フライ」についてネタバレがあります。どうせ読むんでしょうけど。

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帰国した時に本を買いだめするんですけど、今回たまたま手にした重松清さんの「小さき者へ」がすばらしい。
まだ読み終わってないんですけど、短篇集なので見切り発車しちゃう。
たまらん。え?今更重松清?って思うかもしれないけど今更です。流星ワゴンしか読んだこと無かった。
小さき者へは子供を通して、家族の絆を描く話なんですけど、以前フライ・ダディ・フライについて、すごく良かったと書きましたが、あれとはまったく違ったベクトルで素晴らしい。
フライ・ダディ・フライは今手元にないのでうろ覚えで書きますけど、高校生の娘がカラオケボックスで乱入してきたDQNに犯されそうになって抵抗したら相手がボクシングの学生チャンプかなんかで、ぼっこぼこに殴られて入院しちゃうっていうすげー恐ろしい局面から始まるんですけど、どこにでもいる普通のサラリーマンのおやじが歯を食いしばって奮闘して一矢報いる、いわば王道のストーリィです。
娘が担ぎ込まれた病院で「許せねぇ!」つってDQNチャンプの胸ぐらつかもうとしたら、寸止めパンチ見せられただけで腰抜かしちゃうおやじ。そこからまぁいろいろ出会いがあって、体を鍛えたりして、最後はギャフンと言わせるんですけど、その過程の伏線がけっこう盛大で、事件以来見損なったとばかりに素っ気無い嫁が作る、味もそっけもない飯が実はトレーニングの為の考えつくされた献立だったとか、まぁそういう色々とわかりやすいけどやっぱ感動しちゃう伏線を回収して最後には感動しちゃうっていう話です。
で、この本で言いたいことって、要するに頑張るおやじの真摯でひたむきな姿だと思うんですけど、僕が感動したのもまぁ実際思惑通りで、その涙ぐましい努力姿勢なんですよね。あと気づいてなかった愛とか。
おやじすげーよかっこいいよっていう話。実に明快。でも僕はこういう明快な話も大好きなんですよ。
ただ別に入院させられたのが嫁でも老いた母親でもいいんですよね、実際。
ここで大切なのはおやじだから。
ところが重松清は違う。
巨匠やばい。教科書に載るレベルやばい。
誰もがもつ人間の見栄や意地や嫉妬心やそういったいやらしさを、汚らしさを素直な子供の姿を通して、時には子供の目線から、時には親の目線からとても綺麗にあぶり出していて、家族の絆みたいなものにそれはそれは美しく帰着させてくる。美しく帰着させるっていうのは、美談とか、ハッピーエンドっていうんじゃなくて、その着陸姿勢がとてもスムーズで違和感が無いということ。例え降りた空港が内戦の続くアフリカの小国だたっとしても。
びっくりするぐらいすすーって普通に涙でてくる。そんでそれは郷愁だったり、幼い頃の自分への回顧だったり、自分の親や家族への思いだったり、そういう一言では言い表せないようなものが本当にきれいにまとまってただ「感動」いう形で泣ける。
まるで自分のウロが落ちて行くように泣ける。すげーデトックス。
こりゃぁかなわんと思った。
正直小説家なめてた。こんな作家がごろごろしてる日本やばい。
「フライ・ダディ・フライ」がロックミュージックだとしたら、「小さき者へ」はなんだろう、和歌かな。歌詞のない三味線だろうか。
うまい例えではないけど。
同じ家族テーマに描いた話でここまで対照的で、どちらも感動できるので僕ってなんてお得な性格って思いますはい。

そんで、ここまで書いて思ったんだけど、まだ全部読んでないからわからんけど、「小さき者へ」の「小さきもの」って子供の事だと思っていたけど、もしかしたらそうじゃないかもしれん。

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Lucky Dube/House of Exile
posted by ミグリン at 20:36 | Comment(2) | TrackBack(0) | メディア はてなブックマーク - 重松清「小さき者へ」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月22日

ゲームと教育について

先日、とある方とゲームの話になった。その方は二児の母であられるのだが、お子さんがゲームばかりしている、という話からである。僕は小さい頃は親が厳しくてなかなか思う存分にゲームをさせてもらえなかった反動か、今でも年甲斐もなく貪るようにゲームばかりしていると笑いあった。
その時も話したのだか、ゲームに打ち込む姿勢は決して悪いものではないように思う。
コンピュータプログラムは決して裏切らない。ゲームの中でキャラクターが死んでしまったら、必ず自分の操作なり攻略法なりが(例え理不尽な理論でも)間違えているのだ。その間違いや経験不足をただし、反省し、攻略に向けて違うアプローチを探したり、腕を磨こうとする姿勢はとても善良で正しいと言えると思う。高校以下の学校教育の教科書から学ぶことでこの方法で解決できない問題はないように思う。
だが世の中に出てみれば、バグやチートで溢れていて、決してクリアできるゲームだけではないのも事実だ。
これについては今のゲームだけでは学べないと思う。

ところで、散々議論されていることだが、残虐性の強いゲームの教育における有害性であるが、これについては正直僕はわからない。どちらでもあると言える。
そもそも、残虐な行為という概念は、社会性ある大人の尺度だ。
腕がもげる、血が飛び散る、女性が犯される、それらの表現の残虐性について理解していない子供に繰り返しそういう映像を見せることが精神に影響を及ばさないのかと言われたらそれはそうかもしれない。
せめてこれは悪い行為だ、これは残虐な行為だと理屈でいいからわかるようになってから遊んで欲しい。
勧善懲悪で帰結するストーリーならまだ救いはあるかもしれないが、そういうものばかりではない。
逆説になっていないが、だからといって、そういうフィクションを取り上げれば良い子に育つかというと当然そうではないし、実のところ僕はそういう映画やゲームが人間がもつ残虐性の受け皿になるという考え方には賛成だ。
僕は変わった少年で、ガンケシやキンケシと言われるゴムの人形の頭をもいだり、爪楊枝で串刺しにして並べているような子供だったらしい。らしいというのら本人は記憶に無いからだ。平たく言うと異常だった。
僕が最も敬愛するデザイナーのW氏は、幼稚園の頃から好きな子をエレベーターに閉じ込めていて、こっぴどく怒られたことがあるらしい。笑い話であるが、笑い話ではない。
攻撃性、残虐性、独占欲、性欲。
スポーツで汗を流して忘れさせるか、ゲームや映画で一時的に発散するか、どちらが良いのかはわからないが、必ずそれは存在するところにはするし、一つ言えることは、無いことには出来ない。
教育というと、なにか良い光を当てることだけを連想するが、負の感情や悪の意味を教えることも立派な教育だと思う。
人が殺されるシーンや、女性が犯されることに興奮する人間はいたって平凡な悪人である。不思議でもなんでもない。残虐な行為に興奮できるのは、その人間が事の残虐性を理解しているからであると言える。
また、血や、死体に美を見出すような人物もまだ幾分かは理解できる。ただ美的感覚が一般人と違うだけである。
最も異常だと思うのは、最も恐ろしい人間は、なんの感情も持たない人間である。
食事をするように他人を殺し、髪をかき上げるように異性、同性を犯すことができる人間がいたら、それは異常だと思う。
理性でも、本能でも良い。そのどちらでも残虐性を理解していない人間がいたらそれは恐ろしい。
そして、そういう人物とゲームの関係性は、今のところ無いように見受けられる。

そして、最も思うことは、子供を子供扱いしないこと。
これに尽きると思う。

余談だが、後日その女性から「PS3を買いました」というメールを頂いた。
度肝抜かれた。
僕としてはお勧めしたつもりは毛頭なくて、ただそういう話をつらつらとしただけだったのだが、光栄である。よく「あの映画はおもしろかった」「あの本は良い」「あの曲が好きだ」という話をして、「そうですかじゃぁ後で見てみます」という返事をもらうが、そんなものは社交辞令だと思っていた。
本当にお勧めするなら、自腹でそれらを購入して手渡してやらねば触れることなんてないものだと思っていた。くどいようだが本件についてはお勧めしたつもりすらない。
人を喜ばせる方法とはいとも簡単である。
その人の興味があることに、同じように興味を持ってあげること、またはその素振りを見せてあげることだ。この方は別に僕を喜ばせようとして購入したわけではないが、僕は単純なのでそのメールを見てにんまりした次第である。
いくつになっても、いつの時代もこういう人間はヒトに好かれる。
好かれたいと思っているかどうか、はおいとくとして。
posted by ミグリン at 13:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思考 はてなブックマーク - ゲームと教育について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月19日

水やり

急に何かいろいろと物事がうまく回りだすことがある。
うまくいってなかったプロジェクトが急に軌道にのったり、登録しておいた転職サポート会社から良い求人の話をもらったり、縁談がまとまったり昇進したり。
憑き物が落ちたようにとか、星の巡り合わせが等と運や神様のせいにするのは簡単だがよくよく考えてみるとなんということはない、ただ単に蒔いた種が花を咲かせただけであることが多い。
宝くじにあたったり、兄弟が結婚したりと己のあずかり知らぬところで進行していたような運によるものが大きいものもあるが、ことビジネス、特に対人に関してはそうではないことが多いように思う。
例えば急に持っていた株の価格が高騰して思わぬ副収入を得たとしても、それは株を買うという種をまいておいた結果である。
(宝くじに感しては当選率が天文学的な数字なので、買わない人が得をするという国家的な詐欺であるのでやはり運に分類される。)
それで最近思うのだが、蒔いた種にも水をやらねば咲く花も咲かないといういたってシンプルな考えを今まで持っていなかった。
工場に指示を出してそのまま放っておいたら、とんでもないものができあがってきて上司に怒られたり、という具合である。
転職サポートの会社に登録したもののそのままにしておいたりしても良い結果が得られないことが多い。
たった一本、先日はありがとうございましたとメールをうつことで良い結果が得られたりするものだ。
世の中は幸か不幸かそういうふうにして人とのつながりでまわっていることがほとんどであるから、その歯車を回すにはやはりコミュニケーションという潤滑油が必要なのだろう。
僕のようなモノグサはついめんどくさいなぁと、そのたった少しの手間を、文字通り少しの価値と見誤って省略したりしがちであるが、それでは花は咲かないのである。
これは恋愛と似ているのではないか。
合コンに顔を出すことは種まきであるが、まめに連絡をとることを億劫がっていては彼女などできないのだろう。
合コンで彼女ができたことは無いのが。
最近では心のなかで水やりと称して億劫がらずに手をまわすようにしている。
なんと罪のない、なんと善良なことか。

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CHEHON/FLOWER ROAD -花道-
posted by ミグリン at 20:20 | Comment(4) | TrackBack(0) | 思考 はてなブックマーク - 水やり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

iPhoneの勢い

iPoneが世の中に出現して良くなったことに誤字脱字があるとおもう。です。あいつらiPoneユーザーときたらでっかい指でちっこい画面いじくりまわしとるけんまぁ誤字脱字というか押し間違いが多いのですけれどもなんか昔よりもグッと許容されるようになった。いちいち「よろはくお願いしますってなんだよwwよろはくってwwwププwwww」とかレスしてくるやつがすげー減った。あーiPoneねしょうがないわな、みたいな空気が社会全体にそれとなく蔓延してる。そんでまぁ何がいいって、あれってこう押し間違えてても、えーい打ちなおすのめんどうだから押しちゃえー!そうっしん!!っていう「いったれ感」だと思うんですけどそういう曖昧な感じとか明らかな間違いを些細なことだからと正さずに勢いでのり切ろうとする様はなんか今までの日本人にはなかったような感覚なのでいとおかし。
そしてそのうち糸井重里が「押しまつがい」とか本を書くのもまたおかし。
「押し間違えて送信しちゃって、後で恥をかいたなんて経験、ありますよね。PCなら許されない押し間違いも、みんな許されちゃうんです。アイフォーンならね。」
posted by ミグリン at 10:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思考 はてなブックマーク - iPhoneの勢い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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