「孤独」と「悲しみ」は同義ではない

2012年03月20日

Mr. Easy

人の評価はだいたいいつも正しいのだけれど、でもそれだけじゃやってらんないから、時々は自分だけを信じてあげたりもする
なんのため?
だれのため?
どこまで?
あとどれくらい?
まぁだいたいそんなもんです。

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2011年08月22日

ゲームと教育について

先日、とある方とゲームの話になった。その方は二児の母であられるのだが、お子さんがゲームばかりしている、という話からである。僕は小さい頃は親が厳しくてなかなか思う存分にゲームをさせてもらえなかった反動か、今でも年甲斐もなく貪るようにゲームばかりしていると笑いあった。
その時も話したのだか、ゲームに打ち込む姿勢は決して悪いものではないように思う。
コンピュータプログラムは決して裏切らない。ゲームの中でキャラクターが死んでしまったら、必ず自分の操作なり攻略法なりが(例え理不尽な理論でも)間違えているのだ。その間違いや経験不足をただし、反省し、攻略に向けて違うアプローチを探したり、腕を磨こうとする姿勢はとても善良で正しいと言えると思う。高校以下の学校教育の教科書から学ぶことでこの方法で解決できない問題はないように思う。
だが世の中に出てみれば、バグやチートで溢れていて、決してクリアできるゲームだけではないのも事実だ。
これについては今のゲームだけでは学べないと思う。

ところで、散々議論されていることだが、残虐性の強いゲームの教育における有害性であるが、これについては正直僕はわからない。どちらでもあると言える。
そもそも、残虐な行為という概念は、社会性ある大人の尺度だ。
腕がもげる、血が飛び散る、女性が犯される、それらの表現の残虐性について理解していない子供に繰り返しそういう映像を見せることが精神に影響を及ばさないのかと言われたらそれはそうかもしれない。
せめてこれは悪い行為だ、これは残虐な行為だと理屈でいいからわかるようになってから遊んで欲しい。
勧善懲悪で帰結するストーリーならまだ救いはあるかもしれないが、そういうものばかりではない。
逆説になっていないが、だからといって、そういうフィクションを取り上げれば良い子に育つかというと当然そうではないし、実のところ僕はそういう映画やゲームが人間がもつ残虐性の受け皿になるという考え方には賛成だ。
僕は変わった少年で、ガンケシやキンケシと言われるゴムの人形の頭をもいだり、爪楊枝で串刺しにして並べているような子供だったらしい。らしいというのら本人は記憶に無いからだ。平たく言うと異常だった。
僕が最も敬愛するデザイナーのW氏は、幼稚園の頃から好きな子をエレベーターに閉じ込めていて、こっぴどく怒られたことがあるらしい。笑い話であるが、笑い話ではない。
攻撃性、残虐性、独占欲、性欲。
スポーツで汗を流して忘れさせるか、ゲームや映画で一時的に発散するか、どちらが良いのかはわからないが、必ずそれは存在するところにはするし、一つ言えることは、無いことには出来ない。
教育というと、なにか良い光を当てることだけを連想するが、負の感情や悪の意味を教えることも立派な教育だと思う。
人が殺されるシーンや、女性が犯されることに興奮する人間はいたって平凡な悪人である。不思議でもなんでもない。残虐な行為に興奮できるのは、その人間が事の残虐性を理解しているからであると言える。
また、血や、死体に美を見出すような人物もまだ幾分かは理解できる。ただ美的感覚が一般人と違うだけである。
最も異常だと思うのは、最も恐ろしい人間は、なんの感情も持たない人間である。
食事をするように他人を殺し、髪をかき上げるように異性、同性を犯すことができる人間がいたら、それは異常だと思う。
理性でも、本能でも良い。そのどちらでも残虐性を理解していない人間がいたらそれは恐ろしい。
そして、そういう人物とゲームの関係性は、今のところ無いように見受けられる。

そして、最も思うことは、子供を子供扱いしないこと。
これに尽きると思う。

余談だが、後日その女性から「PS3を買いました」というメールを頂いた。
度肝抜かれた。
僕としてはお勧めしたつもりは毛頭なくて、ただそういう話をつらつらとしただけだったのだが、光栄である。よく「あの映画はおもしろかった」「あの本は良い」「あの曲が好きだ」という話をして、「そうですかじゃぁ後で見てみます」という返事をもらうが、そんなものは社交辞令だと思っていた。
本当にお勧めするなら、自腹でそれらを購入して手渡してやらねば触れることなんてないものだと思っていた。くどいようだが本件についてはお勧めしたつもりすらない。
人を喜ばせる方法とはいとも簡単である。
その人の興味があることに、同じように興味を持ってあげること、またはその素振りを見せてあげることだ。この方は別に僕を喜ばせようとして購入したわけではないが、僕は単純なのでそのメールを見てにんまりした次第である。
いくつになっても、いつの時代もこういう人間はヒトに好かれる。
好かれたいと思っているかどうか、はおいとくとして。
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2011年08月19日

水やり

急に何かいろいろと物事がうまく回りだすことがある。
うまくいってなかったプロジェクトが急に軌道にのったり、登録しておいた転職サポート会社から良い求人の話をもらったり、縁談がまとまったり昇進したり。
憑き物が落ちたようにとか、星の巡り合わせが等と運や神様のせいにするのは簡単だがよくよく考えてみるとなんということはない、ただ単に蒔いた種が花を咲かせただけであることが多い。
宝くじにあたったり、兄弟が結婚したりと己のあずかり知らぬところで進行していたような運によるものが大きいものもあるが、ことビジネス、特に対人に関してはそうではないことが多いように思う。
例えば急に持っていた株の価格が高騰して思わぬ副収入を得たとしても、それは株を買うという種をまいておいた結果である。
(宝くじに感しては当選率が天文学的な数字なので、買わない人が得をするという国家的な詐欺であるのでやはり運に分類される。)
それで最近思うのだが、蒔いた種にも水をやらねば咲く花も咲かないといういたってシンプルな考えを今まで持っていなかった。
工場に指示を出してそのまま放っておいたら、とんでもないものができあがってきて上司に怒られたり、という具合である。
転職サポートの会社に登録したもののそのままにしておいたりしても良い結果が得られないことが多い。
たった一本、先日はありがとうございましたとメールをうつことで良い結果が得られたりするものだ。
世の中は幸か不幸かそういうふうにして人とのつながりでまわっていることがほとんどであるから、その歯車を回すにはやはりコミュニケーションという潤滑油が必要なのだろう。
僕のようなモノグサはついめんどくさいなぁと、そのたった少しの手間を、文字通り少しの価値と見誤って省略したりしがちであるが、それでは花は咲かないのである。
これは恋愛と似ているのではないか。
合コンに顔を出すことは種まきであるが、まめに連絡をとることを億劫がっていては彼女などできないのだろう。
合コンで彼女ができたことは無いのが。
最近では心のなかで水やりと称して億劫がらずに手をまわすようにしている。
なんと罪のない、なんと善良なことか。

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CHEHON/FLOWER ROAD -花道-
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iPhoneの勢い

iPoneが世の中に出現して良くなったことに誤字脱字があるとおもう。です。あいつらiPoneユーザーときたらでっかい指でちっこい画面いじくりまわしとるけんまぁ誤字脱字というか押し間違いが多いのですけれどもなんか昔よりもグッと許容されるようになった。いちいち「よろはくお願いしますってなんだよwwよろはくってwwwププwwww」とかレスしてくるやつがすげー減った。あーiPoneねしょうがないわな、みたいな空気が社会全体にそれとなく蔓延してる。そんでまぁ何がいいって、あれってこう押し間違えてても、えーい打ちなおすのめんどうだから押しちゃえー!そうっしん!!っていう「いったれ感」だと思うんですけどそういう曖昧な感じとか明らかな間違いを些細なことだからと正さずに勢いでのり切ろうとする様はなんか今までの日本人にはなかったような感覚なのでいとおかし。
そしてそのうち糸井重里が「押しまつがい」とか本を書くのもまたおかし。
「押し間違えて送信しちゃって、後で恥をかいたなんて経験、ありますよね。PCなら許されない押し間違いも、みんな許されちゃうんです。アイフォーンならね。」
posted by ミグリン at 10:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思考 はてなブックマーク - iPhoneの勢い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月19日

アートとデザインについて

一応職業は何かと聞かれたらデザイナなのでたまにはそれっぽいことも。
よくアートとデザインを混同している人がいる。
アンディ・ウォーホールの版画を見て「デザインが好きだ」と言ったり、斬新でモダンな高層ビルを見上げて「アートだ」と言うわけである。間違っているわけではないが、本人がどの程度その二つの違いを認識しているかというとあやしい限りだ。

最初に結論を述べるが、僕個人はこの二つは全く違うものだと考えている。
かといって相反するものというわけではなく、互いが見事に融合した素晴らしいものも世の中には数多く見受けられる。

僕が思うに、「アートは提案で、デザインは提供だ」と思う。
これは服飾の専門学校時代に至った考えだが、今でも僕がデザインをする上で一つの目安になっている。
当時、パリコレやミラノコレクション等の世界の一線で活躍するデザイナに対して何か漠然とした違和感のようなものを感じていた僕は、服飾の世界でデザイナとして生きて行く決心はついていたものの、いったいどのようなデザイナになりたいのか結論を出せずにいた。
その時に思い至ったのがこの考えだった。
あの人達が作って発表している服は全部提案だ。こういうのはどうですか?これはいいアイデアでしょう?来年はこういう装いはいかがですか?これはアートだ。画家が自分の考えをキャンバスに描くのと変わり無い。自分にアートの才能は無い。きっとあの人達と戦っても勝てることはないだろう。それに、あの人達はきっと自分の作品が世の中に認められないと「所詮オナニーだから。」と言うだろう。「感覚が鈍った。」「老いた。」というのだろう。失敗しても「楽しかったから良かった」と言うだろう。失敗したときに、失敗原因を考える時に、見直すプランを持って仕事に挑みたい。手探りは嫌だ。僕は、こういうものが欲しい、こういう服を着たい、と思っている人達に洋服を提供したい。提案よりも提供で人々を喜ばせたい。素晴らしいと言わせたい。
当時既に共感を集めることに興味はなかった。自分の感性に賛同を得られるまで頑張り続ける根気も自信もなかった。
欺瞞かもしれないが、欲しいと思っている人に欲しいものを供給したいと思っていた。
ゴールが見えている方が簡単だと思ったし、そのためなら粘り強くなれると思った。
流行を作る自信は無かったが、ニーズに答える自信はあった。

アートとは便利な言葉だ。敬愛するkubomi君が以下のようなことをおっしゃっている。
話が変わるが、私は内田裕也の言うところの「ロック」が好きで仕方ない。あるいは「森高千里はロック」だとか、「けいおんはロック」だとか言ってしまう連中が大好きだ。自分の溢れ出す感情、愛、欲望をすべて「ロック」という容器に入れてしまって正当化する奴らは愛らしい。いったん「ロック」という箱に入れば、片思いは倒錯する。これはしばしば「アート」にも当てはまる。「これがアートだ」と言えば、アートに愛され、またアートを愛するという妄想によって、アートを介した双方向の恋がでっちあげられる。これは愛くるしい。

目の前にリンゴがある。そこに鉛筆をぶっさして、その真っ赤な果実から男根の如くそそり立つ木の棒を指さして「これがアートだ」と言えば、とたんにそれはアートへと様変わりするような錯覚を受ける。いやそれは錯覚ではないのかもしれない。そう言うならそれはアートなのだろう。それがロックだと言えば、それはロックなのかもしれない。だが、それは決してデザインではない。その向こう側に人がいないからだ。
ドラム缶をバンっと叩いて、これがロックだ!と言えばそれはロックなのかもしれない。でもそれは果たして音楽であろうか。
昔ロックは、音楽に内包されるひとつのジャンルであった。しかし今やその概念はその母体である音楽を抜けだしてひとつの魂の表現方法へと姿を変えた。カルチャーの誕生だ。
アートはカルチャーだ。デザインに内包されるものでもないし、相反するものでもなければ、同次元のものでもない。
そして、下北沢や高円寺界隈に無気力たむろする人達がしばしば勘違いするようにカルチャーがアートなのではない。

僕は昔芸術大学に進学したくてアトリエに通っていたことがあるのだが(ちなみにアートに対する自分の能力の限界をそこで僕は知った)、そこで教わったことは「世の中にデザインの無いものは無い。」ということである。非常に興味深い考察だ。この考えは長く僕の物を観察する時の指針となった。
車、自転車、鉛筆、シャンプーのボトル、洗濯機、ノート、すべてのものにデザインはある。その通りなのかもしれない。
しかし今では少し違った考えを持っている。
デザインとは何か。本当にあの信号機にデザインはあるのか。この消しゴムにデザインはあるのか。
デザインとはなんなのか。デザインするということはどういうことなのか。
これは非常に難しい問題である。
前述のように、ただ漫然と提供することがデザインだとは思っていない。
最近になってひとつ思うのは、デザインとはプロセスなのではなかろうか、ということだ。

ここに一つの動画を紹介したい。
見事にアートとデザインが融合されている素晴らしい映像だ。
僕がデザイナーとして、これだけは忘れないようにしよう。デザインの本質ってこういうことだな。と思うことを見事に表現した動画であると言える。
「ストックホルムの地下鉄の階段をピアノの鍵盤にしたら66%の人が階段を利用。」


目的のための過程。
客入りのための広告、利便性のための家電製品、快適性のための、美容のための、自己表現のための、環境保護のための。そういった諸々の動機へのアプローチこそが、プロセスこそがデザインではなかろうか。
誰も考えたことのないことを考えることがデザインではない。
何か目的があって、その為に誰も考えたことのない方法で、もしくは誰も実現できなかった方法でアプローチすることが新しいデザインをするということなのではないか。
革新とは結論だけを指すのではない。
昨年と同じ1000円のTシャツをつくるのに、誰も考えつかなかったような方法で、コストを半分にし、納期を1ヶ月縮め、素晴らしいプロモーションを考え、昨年の2倍の利益を会社にもたらし、昨年よりもたくさんの人の満足を得ることに成功したら、それは革新的なデザインをしたということだ。
そして我々の仕事はそういうことを考えることだ。
何も上っ面の形のかっこよさを考えることだけがデザインではない。

長い間デザイナという職業にいると、たまに人から「どうやったらデザインが浮かぶの?」「どうやったらデザイナになれますか?」と言う質問を受ける。
デザイナになりたいのであれば、デザイナへの道をデザインすることから初めてはいかがだろうか。
posted by ミグリン at 22:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思考 はてなブックマーク - アートとデザインについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月28日

クリエイターについて

最近暇なんでよくMacにかじりついてるんですけど、楽しい。あっという間に時間が過ぎて行く。なんなのこれ。特にMacに初期搭載のiLifeがすこぶる楽しい。以前紹介したiWebもしかり。iLifeのすごいと思うところは、誰にでも気軽にクリエイター気分を味わわせてくれるところだと思うんすよ。アプリの完成度がむちゃくちゃ高くて、さらに管理ツールとしての役目だけで終わってないところに関心する。常に何かを発信することを前提として作られているところがすごい。例えば写真を管理ソフトのiPhoto一個とっても、それを管理するだけで終わってない。iMovieに書きだしたてすぐに簡単なスライドショーをDVD化したり、iWebに取り込んでwebに公開したりがきちんと最終目的におかれている。そのインターフェイスの優秀さもさることながら、スライドショーの音源、エフェクト一個とってもしびびびびびびれるかっこいい。iPoho,iWeb,iMovie,iDVD,Garege Band,etc,,,iLifeのどれをとっても捨てソフトが一個もない。こんなこと、Windows PCでは絶対ありえない。PCは購入したらまずどのソフトを捨てるか考えることから始めないといけない。新品なのにショートカットで無駄に散らかったデスクトップにはほんと辟易する。(つかあの吐き気を催すくらダサい壁紙なんとかしろよ!)次にPCを買おうとしてるヒトには絶対Macを勧める。つか他の選擇肢ないから困る。ただ、貧乏人で、全てのソフトやコンテンツを違法にDLして呑気に暮らしたいヒトは一生PC使ってればいいさ。とは思う思います。その辺Macだと辛いかもね。あ、あとPCでゲームするヒト。

なんだろう、昔は「クリエイターはMAC」みたいな時代があって、でもWindows PCにアドビ社が参入してから、そんなもう変わんねぇべっていう時代がずっとあったんだけど、今まさにまた「クリエイティブな作業するならMAC」の時代だと思う。それはつまり「クリエイティブな作業」が、もうクリエイターだけの仕事ではなくなったんだと思うんですよ。誰でも簡単に、素晴らしいコンテンツを、手軽に世の中に送り出せる時代になったんじゃないかな。その時代性を見事に捉えられているのはPCではなく、MACだと思う。地球人総クリエイターの時代が来た。高校生でも主婦でもデジカメを持っていて、オークションなんか利用したら一眼レフも簡単に手に入って、その編集も簡単で、公開するようなwebサービスが無数にあって、音楽がもっと身近になって、安く手に入って、小学生だってブログなんかで手軽に自分の趣味や考えていることを世界に公開できる。すごい時代だと思う。そういう世界の大きな流れに完璧にのっているのがすごい。これからアプリケーションを作成しようと思うようなヒトは、絶対にコミュニケーションとアウトプットの2点を外してはいけないと思う。もうこれなくしてソフトはソフトたりえないのではないかとすら思うよ。そしてこの2点は密接に結びついていて、ほぼ同義であると言っても過言ではないのではないか。アウトプットの最終目的が世界とのコミニュケーションになっていないと意味がない。そうじゃないものなんて、その時点でオワコンですよね。

もっと今まで凡人だと思われてた世界に閉ざされてたヒトたちの持ってる素晴らしいコンテンツを引き出すようなアプリが世の中にいっぱい出ればいい。隠れた天才がどんどん世の中に出て行く時代がきたよ。そしてそういうのは絶対アップル社から、もしくはアップル社を媒体として世の中に出るとおもう。TwitterやFacebook、pixivみたいなwebサービスを利用しなくても発信できる時代が来る気がする。何かをうみ出すことの快感に世界が気付き始めた。「え?この写真あのひとが撮ったの?意外だね!俺にもできるかな、、、、」っていうのがどんどん生まれればいい。誰にもできる。だからこそ、クリエイターはもっとそのはるか先を行かないといけないって思う。そこで止まってたら死あるのみだと思う。以前結婚式場で働く人と話した時に、そこのヒトが言ってた。最近、式場で流すDVD作成を自分でするヒトが多くて、お金にならない。商売にならない。写真を頼まないヒトが増えた。アルバムもいらないと言う。音楽を自分で選ぶヒトが多い。CDも自分で作ってくる。座席表を自主作成するヒトが多くてお金にならない。ブーケも自分で作るという。もう6年以上昔の話。
きっとそんなことでお金を稼げて、儲かっていた時代があったなんていうのが笑い話になる時代がもうそこまで来てる気がする。いや、きっと来てる。そんな時代に僕はいったい何をすればいいんだろうってすごく考える。職人が職人じゃなくなる。きっといつか服も必ずもっと手軽に作成できる時代がくる。パーツを選ぶだけで作成できるような時代が来る。その芽はもう既にある。そのはるか上で、やっぱりあいつの作るもの(コンテンツ)はすごいって言わせないと、クリエイターはもう食ってはいけない。コンテンツを発信する手助けをするか、技を磨いて飛び抜けるか、もうどっちかしかない。

消費の時代は終わったんだなぁって思う。生産の時代がまた来た。
不思議だなぁ。戦後の極貧の時代、この国は生産の時代だった。その後やがて豊かになると、消費の時代になり、それが飽和状態になると、人々はまた生産するようになる。テクノロジーがの発展が後押ししたってのはもちろんあるだろうけど、なんかそれだけじゃない気がする。もちろん戦後の生産と今の時代の生産とでは意味合いが違うんだろうけどさ。そういうサイクルっておもしろいなぁって思うよ。
そしたら今度はまた消費の時代が来るんだろうね。以前とは違った意味合いで人々が消費欲を満たしたいとおもうような時代が。いや、むしろもうそういう時代なのかな。消費欲を満たすために生産してのかもしらん。いとをかし。

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Nova Space/Time After Time (Techno Remix)
posted by ミグリン at 01:20 | Comment(1) | TrackBack(0) | 思考 はてなブックマーク - クリエイターについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月10日

たとえ世界を敵にまわしても

どうでもいいことを少し。
「たとえ世界を敵にまわしても愛す(守る)」という台詞を漫画や映画などで時々みかける(さすがに僕が読むような小説にそのような台詞はまず出てこない)。昔神田うのさんが出ているCMでもそういうものがあった記憶がある。文法にとても違和感を感じる。
世界を敵にまわすのは相手なのか、自分なのか。主語が非常に不明確だ。
「愛す」は能動態なのでおそらく発言者だと思って間違いないだろう。
ここで疑問なのは「世界を敵にまわす」のは誰かだ。
主語が相手である場合、「あなたが世界を敵に回しても、私はあなたの味方だ。」という意味になる。心強い限りだ。
ところが主語が発言者である場合、「私が世界を敵にまわしても、私はあなたの味方だ。」という意味になり、とたんに迷惑きわまりない雰囲気がする。勝手にすればいいと言いたくなる。だがこれは文法的に正しい。(昔見た神田うのさんのCMはこの解釈だったように思う。発言者が実際に世界を敵にまわすというオチだった)
日本語の文の場合、一文節で動詞が二回出てくるような時は主語は変わらないと考えるのが正しい。
例えば「ご飯買ってきたら食べるね」という文章。買ってくるのも食べるのも自分だと解釈するのが常識的だ。それでもし相手が「買ってこいということかな?」と感じるなら、いい人もいたものだ。もしメールでこの文章を受け取ったら買えということか、自分で買うということか混乱するだろう。僕はしない。
受け取ったメールが「ご飯売ってたら買うね」という文章もありえるが、売るのと買うのは相反する行為なのでこの場合は主語が変わった事は明確だ。
「ゲームばっかりしてるとバカになるよ。」「タバコの吸い過ぎは体に良くない。」「仕事が終わったら渋谷に行く。」「世界を敵にまわしても愛す」いずれも文中で主語は変わっていないと考えるのが望ましい。
では質問。「世界が敵にまわっても愛す」となった場合はどうか。一見主語は世界だが、「愛す」は「敵にまわる」の対義語と考えて良いので、「愛す」のは当然世界ではない。では世界を敵にまわしそうなのは誰か。もうわからにゃい。

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Jennifer Lopez/If You Had My Love
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2011年04月05日

わからない

何か最初、わからない事柄があって、わからないのままでいるのが気持ち悪かったり、必要に迫られて調べると
どんどんとわからない事柄が芋づる式に増えていって、
結果として最初に漠然と「なんだかよくわからない」って思ってた時よりも
感覚としてその感じが肥大して、「まったくもってわからない」っていう状態になってることが多い。
はじめの頃より自分が「わかってない」ということを理解する、っていうことなんだろうけど、
これがいわゆる「無知の知」というものだとしたら、自分の無知を知るっていうのもなかなか難しいことだと思った。
自分が「どれくらい」わかってないのか理解するってのが難しい。
無知を知ることって、「オレは何も知らない」って言ってれば良くて、開き直ってればいいって話じゃないのねって、最近やっと気がついた。

まぁそんなこんなで、何か始めようとしたり、何か調べようとすると、決まって頭抱えて大変なんだけど、
だけども、「なんとなくわからない」って思ってた頃のほうが「まったくオレわかってない」って思ってる今より幸せだったとは思わない。
好奇心ってのは尽きることがないねぇ。
ま、この好奇心を仕事にも活かせりゃいいんだろうけど。

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ASWAD/What I Know
posted by ミグリン at 19:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思考 はてなブックマーク - わからない | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月08日

結局オンチって耳なの声なの?

僕は超がつくほどの音痴だ。

中学生の頃、一人ずつ順番に前に出てドレミレドミーみたな発声練習をさせられるんだけど、いつも僕の番でつまづいて、後ろで並んでるみんながクスクス笑っててすごく恥ずかしかった。
好きな子の前で何度も何度もやり直しさせられて惨めだった。
音楽室でいつも居残りさせられてて悲しかった。

そいで社会人になると接待や忘年会でカラオケなんかも連れて行かれたりして
「よし、まずミグリンおまえなんか入れろ」
みたいな流れになったりするんだけど、それが嫌でいつも1次会で逃げてた。

友達とカラオケ行ってもマイク握ったことなかった。

音楽は好きなんだ。
歌う事もほんとは好きだ。
もっと大きな声で歌いたい。
そいで、あわよくばみんなに「うまいね」って言われたい。
「鼻歌でも音痴なんだねwww」なんてできれば言われたくない。
昔は一つだけ願いが叶うなら「歌を上手にしたい」って本気で思ってた。
今はくだんないと思うけどね。
でも思ったようにアウトプットが出来ないってもどかしい。

不思議なんだけど音痴のメカニズムってなんなの?
耳(インプット)に入ってくる音が、正確に聞き取れてないから音痴なの?
声?喉?声域?声量?(アウトプット)がダメだから音痴になるの?
色盲の画家は?すごいヒトも沢山いるね。
確かベートーベンは難聴だったんだっけ?
ちょっと歌と話がずれちゃったけど、SMAPの中居さんているじゃないですか。
彼はもう20年近く歌を歌ってきて、
練習も常人じゃ考えられないくらいしてると思う。
でもあのレベルなんだよ。いや僕からしたら旨いけどね。
でも言いたい事わかるでしょ?

余談だけれど
世の中には努力だけじゃ超えられないものが沢山あるってちゃんと学校教育で教えたほうがいい。
努力や根性の万能説なんて時代錯誤のジョークにもならない。
僕は中学の時に、音楽の先生に
「おまえの声がだめだ。どんなにリズム感がよくなっても、音程がとれても、歌がうまくなることは一生ない。」
って不治の病みたいに宣告された。
合唱会ではずっと口パクしてなさいって言われた。
悔しかったけれど、残酷だけれど、これは事実なのかもしれない。
ただ努力をしたことによって得られる物は必ずあるってのも事実だ。
今になって思う。
たとえそれが目的とは違う副産物であってもだ。
いい先生だったけれど、彼は僕にそれを教え忘れた。
今は努力という言葉自体を昔ほど否定することは無くなった。
あと有名な言葉だけれど、
努力すれば必ず成功するわけではないが、成功者は必ず努力している。

話はもどるが、
自分が歌ってる時、音ずれてんなーとかわかってるつもり。
僕は芸大を目指してアトリエに通ってたことがあるんだけど、そこで学んだことは
絵の上手なヒトと下手なヒトは見えてる情報が圧倒的に違うってこと。
同じコンクリートの電柱を描いた時に黒と白の絵の具しか使わないヒトと多彩な絵の具を用意するヒトがいる。
音楽を聞いててもちゃんと聞き取れてるつもり。
でもやっぱり違うのかな。
わかんないんだよねぇ。

あとね、最後に同じような悩み抱えてるヒト。
僕が言うのもおこがましいけど気にすることない。
僕はある時から「音痴」を気にしなくなった。
いかりや長介さんが言ってた。
「ヒトには笑われていろ」
カラオケで散々今までの鬱憤を晴らすようにダミ声でクソ音痴な歌で精一杯歌ってる。
コソコソする必要ない。
「オンチが一発目いきまぁっす!!!」つって自分から歌ってる。
すっげぇきもちいい。
みんな誘ってくれる。上司も「おまえいいなぁ最高だよ」って言ってくれる。
その言葉を嘲笑ととるか本心ととるかは僕次第だ。
ただし、曲のセレクトはいつも明るくて盛り上がって誰でも知ってる、しかもちょっと短い曲を選んでる。
セレクトさえ間違わなければいい。
歌唱力で売ってる歌手の曲やバラードはだめだ。
平井堅さんとか久保田利伸さんは無理だ歌いたいけどそこは己を知るってことで我慢してる。
それで悩みが消えたわけじゃないけど、とりあえずハッピーだ。

歌も絵もオナニーなんだってやっと最近気がついた。
カラオケなんてその程度だし、その程度の場所しか社会に出たら歌う機会なんてない。
まさかこんな僕に結婚式の余興の話はこないでしょうしね(笑)

※追記:最近知ったんだけど結婚式の余興には「すげー上手枠」っていうのと「すげー下手枠」っていうのがあるらしい。すげー下手枠いいじゃないか最高じゃないか。
posted by ミグリン at 15:13 | Comment(1) | TrackBack(0) | 思考 はてなブックマーク - 結局オンチって耳なの声なの? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月22日

情報とかさー

あーダル。なんつうか今日の僕は昨日のコピペなんですけど、こんなんでええんかなぁって思うよねぇ。今週の僕は先週のコピペ。今年の僕は去年のコピペっすか。あー、じゃあねー、もー、これ言っちゃおっかなー。あーでもなー、えぇ?あーじゃぁ言いますわー。この前国勢調査の話をちょっぴりしたんですけど、あれ回答率ひどいらしいってのをニュースで見たんすよぉ。
つかさー、おまえらさー、なんなの?なんか言うたら「個人情報が」とか言いますよね。バカの一つ覚えみたいに。
しゃらくせぇったらねえ。
この前居酒屋で会社のヒトと飲んでたら予防接種の話になったんすけどね、会社のヒトがこんなこと言う。
「あれ、受けてるんだぁ。そっかー、、、、まぁ、じゃぁいいわ。え?ううん、、、、いやさ、ああいうのって、、、、まぁ、なんつーか、そのうちさ、、、、その、マイクロチップ埋め込まれるからね。いやいや!マジだって!ホントに!まじで国に全部位置とか情報とか全部管理されっからね!」
これ、本気で言うてるからねー。こいつマジで頭大丈夫かと思うよね。なんのパラノイアやねんと。
つかさー、あとさ、タバコ吸ってるヒトいる?しぶとく吸ってるヒトいる?そん中でタスポ持ってるヒトどんだけいる?
僕さ、タスポ持ってるんすけどー、みんな借してくれって言うんすよね。
ほんでさー、なんで作らないのって聞くとたいていのヒトがこう答える。「個人情報が」。

ええかげんにせえよと。
君たちなんぼのもんやねん。闇金や新興宗教ならいざ知らず、政府やJTBに知られてまずい君たちの個人情報てなんやねん犯罪でも犯す気か。どんだけ凶悪犯罪犯す気やねん。それともあれか、悪の政府に立ち向かうレジスタンス気取りか。映画の見過ぎ。
政府はあれかバビロン的なやつか。んで戦う意思はあんのか。ない?はいワロスワロス。

僕なんかあれっすねー、どんどんマイクロチップ的なもんとか埋め込んでほしいわー。
ほんで住民票とか取り寄せんでも良くなったらいいなぁって思うよ。
そんなこと出来るならなんならバーコードの入れ墨くらい入れますよ。
タバコとかもそれで買えるなら最高に便利だよねぇ。免許もタスポも持ち歩かなくていいなんて最高。
ちがう?あっそー。あ、やべー、鼻血でてきt


Pussycat Dolls/I Hate This Part
posted by ミグリン at 21:45 | Comment(3) | TrackBack(0) | 思考 はてなブックマーク - 情報とかさー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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